私たちはどう生きるか
~昭和史から学ぶ非戦と平和~


2024.2.27
「第7話 昭和天皇の側近 君側の奸(くんそくのかん)グループ」

昭和史によく出てくる言葉で「君側の奸」(くんそくのかん)というのがあります。これは、昭和天皇を取り巻く側近たちの集団の事を言います。昭和天皇が16歳で病弱だった大正天皇の仕事を引き継いだ為、創設された補佐役です。
天皇の主要な側近は、「元老」「内大臣」(ないだいじん)「侍従長」(じじゅうちょう)「侍従武官長」(じじゅうぶかんちょう)「宮内大臣」(くないだいじん)と呼ばれる人たちです。

「元老」は昭和に入ると西園寺公望(さいおんじきんもち)ただ一人になります。天皇のご意見番として、政府への発言力も強く、昭和前期の内閣総理大臣はほとんどこの人が決めました。
この人はあの戊辰戦争(ぼしん)にも参加した人で、九死に一生を得て生還した人です。住友財閥の後ろ盾を持っていて、同じ京都大学出身の原田熊雄という人が西園寺の情報係として、のちの首相となる近衛文麿(このえふみまろ)や、のちの内大臣(ないだいじん)となる木戸幸一ともつながっていました。

「内大臣」(ないだいじん)は、警察行政を掌握している「内務大臣」とは違います。ややこしいですが。
「内務大臣」は「内相」(ないしょう)とも呼ばれ、内閣の閣僚で政府の一員です。内大臣は「内府」(ないふ)とも呼ばれ、宮中にあって天皇の政治面での補佐役です。
昭和の初めは牧野伸顕(のぶあき)という人が務めました。この人は大久保利通の次男坊で、娘がのちに吉田茂の妻となるなど一部の人々が力を持つ大グループとなっていきます。この人は昭和10年ごろまで務め、その後、昭和天皇に影響力を持った木戸幸一と続きます。

「侍従長」(じじゅうちょう)も天皇を補佐する人ですが、ここはずっと海軍の大将か中将、「侍従武官長」(じじゅうぶかんちょう)は陸軍の大将か中将がなっていました。
「侍従武官長」は軍事面での補佐役、「内大臣」は政治面での補佐役とはっきりしていましたが、「侍従長」の役割ははっきりしません。「侍従長」は長い事、鈴木貫太郎という人が務めていましたので、仕事の内容ははっきりしないわりに天皇への影響力を持っていたようです。

さらに「宮内大臣」という人がいて、天皇だけでなく皇室全般を補佐する役割で政治や軍事にはかかわりませんが、この人も入れて「君側の奸」グループを作っていました。

この人たちが天皇を補佐しつつ、(天皇以上に)国政や軍事に多大な影響力を持ったのです。
「統帥権」で言うと軍人は大元帥天皇陛下直属の部下になっていましたから、軍事に関しては天皇直下の「侍従武官長」の力が強く、「侍従長」も止められない構造になっていました。
昭和の初めは「侍従武官長」の力は弱く、他の「元老」「内大臣」「侍従長」が中心でしたが、1933年本庄繁大将が侍従武官長になると大変な事が起きます。
要は発言力の強い人が務める事になると、その人に引っ張られる傾向はありました。

「君側の奸」グループは昭和天皇とともに、ずっと軍の暴走を憂慮していました。しかし、軍はだんだんと言う事を聞かなくなるばかりか、この「君側の奸」グループが天皇に間違ったことを吹き込んでいると考え激しく衝突する事となり、ついにはこのグループを標的にするようになります。

2024.2.18
「第6話 統帥権干犯(とうすいけんかんぱん) 犬養の汚点」

ここまでは主に陸軍の話です。ここからは海軍の話をします。

1929年10月24日ウォール街の株式大暴落に端を発した世界大恐慌の影響で世界は大不況となり、日本はますます厳しい状況となります。第一次世界大戦で疲弊した欧州列強はお金もなくなり世界は軍縮の流れになりました。そしてそんな中、1922年のワシントン海軍軍縮条約に続き、さらに踏み込んだ1930年1月ロンドン海軍軍縮会議が行われます。会議には日本から幣原喜重郎外相を中心に若槻礼次郎元首相ら、海軍から山本五十六も列席しました。

会議に行く前に、この位の条件で署名しようと話し合っていましたが、結局かなりそれより譲歩する形で条約に署名する流れとなり、代表団はその旨を日本に電報を打ちました。その電報を受けて、海軍の長老岡田啓介を中心として、署名反対派である軍令部(のちに「艦隊派」と呼ばれる)と、不満はあるが世界情勢から考え国際協調の観点から協定すべきという署名賛成派の海軍省(のちに「条約派」と呼ばれる)が揉めていました。

2週間の話し合いの結果、ぎりぎりの条件提示を出し、もしそれがだめでも最終決定は政府(海軍省を含む)に委ねると決定します。この結果を受けて、濱口雄幸(はまぐちおさち)首相は天皇に拝謁し、軍縮条約を結ぶ事を上奏しロンドンに電報を打ちます。
ところが、正式調印前日になって反対派が猛反対を唱えはじめ、海軍軍令部は海軍省に乗り込んで「同意しない」と言い出し大喧嘩となります。ややこしいですが、海軍省というのは政府の内閣の機関で、海軍軍令部は海軍自体の幹部組織です。当然ロンドンでは代表団が正式に署名します。

そしてこの問題は、直前の選挙で敗れた野党、政友会の犬養毅(いぬかいつよし)、鳩山一郎たちが「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」を持ち出すに至って大混乱になります。海軍の協調派と強硬派の対立を超えて、倒閣目的の与党と野党の政治的策謀も加わって大事件となってしまいます。

「統帥権(とうすいけん)」とは軍隊指揮権の事で、これは天皇が持っています。その天皇の下で、天皇を補佐する立場の軍令部も持っていて、軍の問題はすべて統帥権に関する問題であり、首相や海軍省でも誰も口出しは出来ない、という主張です。
「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」とは、軍令部に反して首相や海軍省が決めるのは、統帥権に違反しているという主張です。
この「統帥権」というのは実は当時は誰も気が付かなかったのに倒閣を目論んだ言いがかりで犬養や鳩山が突然言い出したので、軍令部は「そうだそうだ」と今まで承認していた人まで反対だと勢いづきます。

当時のメディアは条約調印を目指す政府側であり、軍縮は正しく、統帥権干犯はおかしいと批判していましたし、国民世論も世界恐慌にあって軍事費増強には反対でした。
結局海軍は、話し合いを続け「条約は(してしまったので)締結するが兵力は増強する」と結論付け、天皇に報告します。この事件は、海軍と政府の対立がピークに達し、後のクーデター計画まで発展する事になります。
どちらかというと今まで暴走してきたのは陸軍だったのですが、海軍まで政府と対立する事態に至りました。海軍の良識派は続々と海軍を去っていき、強硬派である艦隊派が幅を利かせるようになってしまいます。山本五十六はどっち派でも無かったようでしたが、この時に海軍を辞めようとしましたが「お前が辞めたら日本は大変な事になる」と引き留められます。

実は「統帥権」を考えだしたのは、のちの2.26事件の黒幕として登場する思想家で、しかもこの「統帥権干犯」の理屈はメチャクチャで、統帥権(軍隊指揮権)自体は天皇が持っているわけで、天皇が軍令部を抑える事は出来たのではと思えるのですが、先の「張作霖爆殺事件」の影響で、天皇も何も言えなくなっしまったのでしょう。

「統帥権干犯」という言葉は、その後軍部の暴走を許す材料に使われる事になり、その後の日本の方向性を決定づける重大事件でした。私はずっと、のちに5.15事件で倒れる犬養毅は素晴らしい政治家だと思ってきましたが、この汚点は取り返しのつかない大失策と言えます。

ロンドン海軍軍縮条約に尽力した濱口雄幸首相は、東京駅で統帥権干犯に憤った愛国主義者によって狙撃されます。その時は一命はとりとめますが、濱口内閣の打倒を狙った犬養毅や鳩山一郎らが統帥権干犯を掲げて濱口首相を激しく批判し、議会への出席を強く求めた結果、無理を押して議会に出席していた濱口は、辞職後亡くなってしまいます。
犬養、鳩山たちの政治利用は、その後自分たちの首を絞める事になり、政党政治の終わりを自ら招く結果となってしまいます。そしてこの濱口狙撃事件は、社会の自由主義、社会主義に対して、愛国主義、国家主義者などの民間右翼団体が軍部と結託し始めるキーポイントの事件となります。

城山三郎の歴史小説「男子の本懐」では、濱口雄幸首相と当時大蔵大臣であった井上準之助が主人公となっています。タイトルは濱口が「殺されることがあっても男子の本懐だ」と述べていたことが由来となっています。

2024.2.8
「第5話 吉田茂ってそういう人だったの?」

今回改めて昭和の歴史書を読み漁ると、今まで知らなかった事実を知る事になり、今まで描いていたイメージと違ってしまう人が出てきました。吉田茂もその一人です。

みなさんは吉田茂、知ってますよね。戦後日本の首相になる人です。
日本の終戦工作に従事し憲兵に逮捕された事から、平和主義者のイメージが強い人です。戦後の日本に貢献した人ですよね。

実はこの人、日本の昭和史に暗い影を落とす重要事項、「満州建国」に深いかかわりのある人だと分かりました。
現在の史料から、この人かなりの対中強硬派、しかも、かなり軍への影響も強かった事が分かってきました。

吉田茂は、外務省入省後は長い間中国で過ごし、満州の奉天の総領事にまでなります。
1927年田中義一内閣となると、この吉田総領事は、中国の内政に干渉して軍にもめ事をつぶすように発言しています。
田中義一内閣の外務次官だった森恪(もりつとむ)という人と結託した侵略擁護論者だったという事が分かってきました。
森恪と吉田茂のこの提案が、満州国建設のもととなったのです。
森恪という人は、この時鈴木貞一と知り合い、関東軍の河本大作参謀や石原莞爾陸大教官など、今後満州国の関東軍の歯止めのない暴走の責任者と深く関わっていきます。
吉田茂の後、入れ替わりに奉天の総領事となったのが、吉田と外務省の同期の林久治郎という人です。その直後に張作霖爆殺事件が起こりますが、林久次郎総領事の尽力で軍部の行動を批判し平和的解決に努め、張作霖爆殺事件の真実が分かる事となりました。
これがもし吉田茂だったらどうなっていたか、分からないと思います。

当時の吉田は「対満政策私見」という私論の中で、「満蒙を日本の植民地にする事で、すべての問題を解決し、日本民族は発展する」と主張しています。
この頃には日本政府の中にも、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を始め、まだまだ国際協調路線を唱える政治家もいました。
そんな中でのこういう主張は、陸軍を勢いづかせる結果となり、陸軍の力を借りて出世したのではと疑ってしまいます。
吉田は、一時は陸軍も上回る強硬派で、元陸軍の田中義一首相でさえ手を焼いていたと言われています。

吉田茂は日本の終戦から昭和後期まで日本に尽力した功績はあります。誰しも間違った行動を取ってしまう事もあります。過去の自分の行いを反省し、やり直したかったのかもしれません。しかしそんな人でも、一時期は勢いのままに独善的な思想に囚われていたのです。
日本の暴走は「満州」から始まり、常に「満州」問題がありました。その意味において、吉田茂の行為は誠に罪深い行為と言わざるを得ません。